2013年11月5日火曜日

貴賎融和~明治帝玄孫と薬物依存女歌手熱愛

時代も変わった・・戦後日本を支配したGHQの出した一つの結果かな。

歌手の華原朋美(39)に求愛していることが女性誌で報道された元皇族・竹田宮家の竹田恒泰氏(38)が5日放送のフジテレビ系「ノンストップ!」で取材に応え、「(報道は)細かく書いてあるので参ったな、という感じです。あそこに書いてある経緯は本当のことです」と全面的に認めた。

 報道は華原自身が答えた内容に基づく部分が多く、竹田氏は今年7月、バラエティー番組の収録で華原と初めて会い、収録後、楽屋を訪れて自著の本と名刺を手渡したという。その際、共にラーメンが好きなことが分かり、ラーメン・デートにこぎつけた。

 初めてのデートの際にはバッグをプレゼントした。「ノンストップ!」の取材に竹田氏は「彼女の誕生日(8月17日)が近かったので、プレゼントしました」と認めた。

 さらには「いとおしいと思っていること、何度もお会いしていることも事実です」とした上で、まだ“お付き合い”にまでは至っていないという。

 今後について竹田氏は「彼女は復帰後の単独ライブや新曲も抱えて大事な時期なので、あまり騒がない方がいいと思います。苦難を乗り越えて復帰した彼女に、多くの人が勇気をもらっていると思いますから」と、どこまでもぞっこんだ。

 結婚観について尋ねられ「もう38なので、そろそろと言われています。何らかの形で考えていかないといけないですね」と視野に収めている竹田氏、そのイメージする相手は華原なのだろうか。

 慶応大学講師の竹田氏は、JOC会長・竹田恆和氏の子息で、明治天皇の玄孫という超良血。「ノンストップ!」にも、皇室に詳しいコメンテーターとしてしばしば出演している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131105-00000029-dal-ent

元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白編集する

日刊騙すメディアと良識ニュース+東京市場より引用

最終更新:niwaka368niwaka368 2009年06月30日(火) 16:54:18履歴



元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白

(三浦芳堅著『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』から)
 斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、「私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました」
と前置きされて、
 「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、

実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。

 吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
 薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した(この告白より、孝明天皇陛下の朝廷を乗っ取りの仕立て人であった西郷南洲を成敗する西南戦争は基本的に官側は口封じの為に行ったのではないか?それから、正しい皇統を受け付ける天皇陛下一族は清和(陽成)源氏一族である。藤原基経の陰謀によって陽成天皇陛下は廃帝させられた。其処から、日本は真の意味の南北朝問題が起きている。その流れの源為朝が沖縄で王としてなり、そして孝明天皇陛下も清和(陽成)源氏の子孫であるから正しい王朝なのである!愛)。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。
 明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは、明治二年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせられ、同六年には官幣中社に列せられた。
 而して御聖徳に依り、着々として明治新政は進展し、日清、日露の両役にも世界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として此の大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、然も明治44年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、往来の歴史を訂正されたのである。と王政復古明治維新(この言葉は正しくない。『大逆革命明治維新』の言葉が正当性がある!愛)の真相を語り、尚此の外に、岩倉具視卿の活躍(暗躍!愛)や、三條以下七卿落ちの真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細に渉ってお話し下さいました。


睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
http://blog.goo.ne.jp/adcnaga/e/62a95a4957409f05319a4f671295ed2b

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