太平洋戦争開戦や終戦の“聖断”に至る経緯、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥との会見など、戦前から戦後の占領期にかけての新史料があるかが注目される。 側近の日誌や侍医の拝診録のほか、未公開の個人の文書や元侍従からの聞き取りなども参考にした。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2014010901001891.html
http://www.peeep.us/51e85b7e
1945年8月13日
最高戦争指導会議で、《ポツダム宣言の受諾》が決定
1945年8月13日
陸軍所属の畑中健ニ少佐・椎崎二郎中佐を含めた6人の将校らが、
1945年8月13日の時点で、当時の陸軍大臣であった阿南 惟幾(あなみ これちか)大将に
「兵力使用計画」というクーデター計画を掲示、賛同を求めていた。
1945年8月14日
一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀らが無条件降伏受託に反対しーデター計画を画策。
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午前
この『クーデター計画自体』は阿南陸軍大臣らに否定され頓挫する。
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午後1時
御前会議で天皇自ら『マイクの前に立つ』と発言→『玉音放送』の実施が決定
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午後3時
クーデターを計画していた畑中少佐が、東部軍管区司令部の田中大将と面会
結果、クーデターへの賛同は得られず。
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畑中健ニ少佐・椎崎二郎中佐を中心とした若手将校らを中心に
阿南陸軍大臣などからの支援無しのクーデター(宮城事件)が
決行されることになる。
午後11時半過ぎ
玉音放送の録音が終了。
無事に終了したが、昭和天皇自らが再度の録音を希望、二度目の録音が行われた。
8月15日午前0時、
《クーデター決行》
下村宏情報局総裁と、NHKの録音技師として(玉音放送の)収録に立ち会った
玉虫一雄さんが録音を終えて帰路についたとき、
坂下門で玉音放送に反対する近衛兵たちに捕えられ監禁された。
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しかし彼らは玉音盤を持っていなかったため、反乱軍は宮内庁に侵入した。
午前1時45分
森赳(たけし)近衛師団長は、蜂起に加わるよう説得に来た将校たちに対して
これを強く拒否し、殺害される。
午前2時
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠。
電話線の切断、皇宮警察官らの武装解除を断行。玉音放送阻止のための玉音盤の大捜索
畑中少佐は次の手段として、放送会館を武力占拠することで放送自体を不可能にさせ、
またラジオ放送を通じ国民に決起の趣旨を呼びかけようとしたが、これも失敗に終わった。
午前5時
阿南惟幾陸軍大臣若手将校の暴走の責任を取って、午前7時絶命
早朝
東部軍と共に東部軍司令官田中静壱大将が自ら皇居に乗り込みこれを鎮圧。
午前11時20分
中心メンバー・畑中健ニ少佐・椎崎二郎中佐自害。
1945年8月15日正午
玉音放送開始。終戦
昭和天皇を殺してまでも玉音放送を止めさせようとした畑中健ニ少佐・椎崎二郎中佐は戦後、靖国に英霊として祀られている。
またクーデターに参加他の将校は処罰すらされていない。
国家神道・天皇カルトにおいて『天皇』の存在とはあくまで維新のクーデターでは『玉』と呼ばれ、
意にそぐわなければ殺してしまえばいいという程度の存在であり、実際孝明天皇は長州藩の過激分子によって殺され睦仁という傀儡天皇を擁立して明治新政府を樹立したわけである。
宮城事件においても暴走した『過激ウヨ分子』将校、畑中健ニ少佐・椎崎二郎中佐にとって玉音放送の阻止が最大の目的であって昭和天皇などもはや眼中になかったといっていい。
殺してしまえば玉音放送がなくなるわけだから。
その後の処理は『昭和天皇自身が責任をとって自害なされた』とどうとでも捏造できるわけだから。
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