2014年1月27日月曜日

総連プロパガンタ映画制作の井筒和幸監督『永遠の0』批判で炎上売名?

かつてTV番組『探偵ナイトスクープ』からの旧知の百田氏の作品の映画を井筒監督はこの映画で『特攻隊美化』と批判した。

彼はかつて在日朝鮮人のイメージ向上の広報(プロパガンタ)映画を朝鮮総連のバックアップで制作し名声を得た。だから同じ『美化』映画を撮った映画監督として『永遠の0』に同じ匂いを感じたんでしょう。しかし彼が『在日美化』映画を撮った『前科』を皆知ってるんで反響があるわけです。

彼もメディアの中での『反日キャラ』の立位置がわかってますから批判承知の計算づくです。『ケツ』を総連・在日が持ってくれるのでイケイケですよ(笑)百田氏も反論してますがどうみても『プロレス』です(笑)

そもそも映画自体が『美化・誇張』が入る『作り物=フィクション』なんで『観る側』の人によって『ゼロ戦の描写がリアルでエンタテイメントとして良かった』という人も居るし、
『軍靴の音が聞こえる』と思った人も居れば、『主役の岡田君』がかっこよかった、という人も居るし、明らかに『特攻隊美化』で嫌悪感持つ人が居てもいい。

私は『泣かせるエンタテイメント』だったという感想である。

同時に『特攻隊』という『存在・事実』を『悲劇の英雄』として賛辞したい意図を感じましたし、『愛する家族・子供・絆』のためというメッセージをグイグイ感じた。

『特攻隊』の美談・美化なんか戦後まもなく『遺族会』を英霊として祀るのとカネで納得させてますから、今に始まった事じゃない。

というか、映画・『永遠の0』は美化じゃなく『ファンタジー』だから。

『特攻隊』は何故、どういう背景で編成されたのか?といえば、大戦末期の敗色濃厚の戦局打開のためにといえば聞こえはいいが無条件降伏の先送り、官僚化した参謀本部の尻拭い、保身の産物。

尻拭い要員として特攻隊に召集された若者にとってこれこそある意味『悲劇』。
みんな家族の元に帰りたかったんですよ、靖国で会おうなんて本音でもあるわけない。

ただ、この国が、特攻隊を英霊として美化したい人にとって、
『戦地に赴く・殉ずるモティベーション』を今の若者に『愛する家族・子供・絆』に刷り込みたいんだなということはわかった。

(以下抜粋)
V6・岡田准一が主演した映画『永遠の0』が、昨年末に全国430スクリーンで封切られ
1月15日までに観客動員約375万人、興行収入46億円を突破する大ヒット作となっている。
安倍首相も観に行ったことを明かすなど久々に邦画の底力を見せつけた本作であるが、『パッチギ!』などで知られる映画監督の井筒和幸氏が痛烈に批判した。

16日放送の『井筒とマツコ 禁断のラジオ』(文化放送)に出演した映画監督の井筒和幸氏が、
年末に観た『永遠の0』について感想を明かした。

『永遠の0』は、太平洋戦争での零戦搭乗員の悲劇を描いた戦争映画である。V6・岡田准一演じる特攻隊員が、「家族のもとに帰りたい」という思いを強く持ちながらも零戦に乗り込み、部下を守るために自らの命を犠牲にするというストーリー。 

井筒監督は「観たことを記憶ゼロにしたい」と、特攻を美談にする本作へ疑問を呈する。 ストーリーや登場人物が実在したという証言もなく、現実味がないのに 、ただ特攻を美談化するような描写に納得できないのだという。

本作のCMでは、上映を観た観客がスタンディングオベーションするシーンがある。
しかしこれは初日舞台挨拶の時、観客が司会者に促され受動的に立ち上がった時のものだという
話がある。
これについても井筒監督は「エビの偽装問題と変わらんぞ!」と興奮した様子で強く非難した。

昨年には、広島の原爆や戦争を描いた漫画『はだしのゲン』の公立学校での閲覧制限が問題となった。 戦後70年の節目を迎える2015年の夏に向け、生の戦争体験を耳にすることが難しくなった今だからこそ エンターテインメントと戦争との関係を整理する必要があるようだ。

写真:井筒監督、映画『永遠の0』に噛みつく
http://japan.techinsight.jp/wp-content/uploads/2014/01/179069667_org.jpg

Techinsight 2014年01月20日 21:15
http://japan.techinsight.jp/2014/01/naomaru201401201624.html

>観た記憶をゼロにしたい」

彼が総連の犬になって在日朝鮮人イメージ向上プロパガンタ映画『パッチギ』だけで名を売った事実はゼロにはならない(笑)

李鳳宇(リ・ボンウ、1960年 - )は、日本の映画プロデューサー。元映画配給会社株式会社シネカノンおよび株式会社シネカノンパブリッシャーズの代表。現在、株式会社SUMOMO代表


生い立ち・学生時代[編集]
1960年、京都府京都市東山区に在日朝鮮人として生まれる(1990年代に韓国籍取得)。

李が「最も尊敬する」父親(1987年死去)は、「朝鮮労働党に身を投じた」朝鮮総連(在日朝鮮人総聯合会)の幹部であった。母親も「在日非公然組織・労働党員」を養成する朝鮮総聯中央学院で「缶詰教育」を受けた幹部だった[1]

1972年、京都朝鮮第一初級学校卒業。1978年、京都朝鮮中高級学校を卒業し朝鮮大学校入学。1982年、同大学外国語学部卒業。1983年、朝鮮総連の機関紙・朝鮮新報社入社。1984年、フランス・ソルボンヌ大学留学。2年間を過ごす[2]。帰国後、
1986年、※徳間ジャパンにて委託プロデューサーの道を歩み始め、
1989年、映画配給会社シネカノン設立。

2005年、『パッチギ!』(井筒和幸監督)で毎日映画コンクール日本映画大賞



徳間ジャパン・風の谷のナウシカ・塩田丸男には触れませんw
彼女のファンなんでw

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